嫉妬?

見切り発車ですが

 

思いついたので、とりあえずメモがてら書きます。

 

 

 


ひとから恨みをかうってのは

嫉妬される、

ってことなんだ。

 

そんなこと、すべきではない

 

は、根本的には

オレだってやりたいのに
オマエだけやってずるい

だしね。


そう、嫉妬は

 

ずるい

 

って気持ちで、


その根底には


オレのこと見て欲しいのに!
大事にしてほしいのに!
ムキーッ!


があって、

 


それは自分自身からの、メッセージ。

 

おーい、

人の目ばかり気にしてないで

今ここじゃないとこばかりみてないで

 

自分自身のこと、みてよー

大切にしてよー

 

っていう、こと。

 

 


だとすると…

 

 


私だけじゃなく、
みーんな、そうなんだ♡


あー、安心。笑

 

 


とりあえずは

自分をたいせつにいこ。

共有。

「あなたとこれを、共有することはできない」

 

と言われたとき

 

あ、それを私にさわって欲しくないんだな

とだけ分かって、

触れないように、離れようとおもった。

 

 

 

でも…ふと、思った

 

 

共有って

所有って

 

なんだろ。

 

 

 

 

全てのものを

全ての存在で

共有している

 

本当に、そうでしかない

 

 

 

私は、そう思っている。

 

のだな。

 

 

 

 

 

ちなみに、

 

矛盾してるようだけど、

 

「これ私の!触らないで!」

「これ私の!食べないで!」

 

とか、よくあります。(笑)

 

 

でもそれは、「所有への執着」とはまた別のことなのです。

単なる(笑)そのときの感情であって、取るに足らないこと。

 

色即是空、空即是色。

 

なワケだしね。

 

 

せっかく地球に生まれたのだから

 

 

物質も感情も、

 

楽しみましょう◯

 

 

今日も、よい日。

 

しあわせになることを、ゆるす。

あるところで、パラパラとめくっていた本に

 

「イヤな人」は、存在しません。あなたが、ある人を「イヤな人と認定している」のです。

 

とあり。

 

そうそう、そうなんだよね、

起こっている現象はフラットで

自分の価値観で

それをどう認定するかなのだ。

 

 

 

 

なんて思ってたら

 

 

突然

 

 

 

 

すごい言葉(自分的に)が

降ってきました よ。

 

 

 


ひとを嫌っても

ひとを羨ましがっても

そのままでしあわせに、なれる

だから、

自分を責めることだけはやめて

さっさとしあわせになろう

 

 

 

 

あらら。

 

しあわせになることをゆるす

 

って、こういうことかあ、もしかして。

 

で、

 

自分にゆるして、なかったのか

 

と。

 

だから、

人を嫌ったり羨ましがったりしてる人をみて

 

何やらざわざわしていたのか。

 

 

 

 

 

自分の世界のことは、全てが、自分のせい。

 

イライラするのも、羨ましがるのも。

 

攻撃されることも、理不尽な対応されることも

自分がそうと受け取らなければ、ない。

他人に、自分の世界を変える力は、ない。

 

 

 

の、上で、

 

 

 

イライラする自分、羨ましがる自分、

凹む自分、悲しむ自分、

 

のままでも

 

しあわせになっていいよ◯

 

の許可を、自分に出すということ。

 

 

 

自分をゆるすこと、

 

少しずつ、わかってきたような気がします。

 

ゆっくりゆっくり。

少しずつ少しずつ。

 

 

 

 

 

 

正論おばけ。

正論は、凶器であるか。

 

否。

 

こんにちは、言論を直ぐに訂正する、私です。(笑)

 

 

 

正論とは、、、?

 

またまた考えてました。

 

そして、見つけました。

 

正論おばけを、あちこちに!

 

正論おばけとは、正論を言っているひとたち、です。

(えーと、正論を私に言ってくる「気がする」というだけ、ということも付け加えておきましょう)

 

では、なぜ「おばけ」みたいなのか??

 

正論とは大体、

 

常識(と言われているもの)であったり

こうでなくては

こうせねば

こうするべき

 

が元になってるので、

 

物凄く正しいようでいて、じつは、他の言論同様、ぼやんと不確かなものだからです。

 

 

 

で、正論おばけの正体とは。

 

そのひとに映し出された

 

 

自分

 

 

です。

 

 

や、そうではなく、

 

映し出された自分が、おばけのように空恐ろしいものにみえる

 

ということなのです、たぶん。

 

 

自分に、劣等感や罪悪感

つまり、自分自身が、

ベキネバで自分をジャッジしているとき

(たぶん、ほとんどの場合、無意識に。)

 

 

相手に映し出された自分が、おばけにみえるのです。

 

 

 

ま、相手に映し出された自分が、凶器のように空恐ろしいということもあるわけで。凶器でも、結局は良いの(笑)

 

 

 

 

そしてたまには

 

正論をどーーーして言いたくなってしまうこともあるでしょう。

 

お互いさまで、

(正論で相手を傷つけると、結局自分に返ってくるからね)

そのおばけ役をたまには引き受けなくてはならないこともある。かも。

 

でも、引き受けなくても、よい。(笑)

 

 

 

 

なんだか、こんがらがっちゃった。

 

 

でもつまり、

 

しあわせいっぱい〜♡

 

ならば

 

おばけも、凶器も

見ることはないし

グサリとやられることはないのですね。

 

で、自分も、おばけちゃんになることもない。

 

そんなことを思った、昨日今日、でした。

 

 

忍耐って

がまんすること

(結果をコントロールするために努力すること)

 

は 忍耐ではない。らしい。

 

 

 

忍耐とは

 

自分が正しいとおもうことを

 

誰に反対されても

 

誰に馬鹿にされても

 

誰に批判されても

 

し続けること、かなあと、おもう。

 

 

 

戦時中とかなら考えを表に出しただけで殺されちゃったりするから、大事にあたためておくのも、行動のひとつだね

 

 

 

忍耐、はじめました

正論という凶器。

 

正しさは時として

 

凶器になる。

 

私は、そう思っている。

 

 

 

 

そして正論の中の正論、

 

ものすごい凶器が、あるのです。

 

 

それは

 

 

「自分で決めたことでしょ」

 

 

これはもう、ザックリ、一撃で、相手を倒せる。

 

 

だから、この凶器は、あえて使わず

 

まずは相手の気持ちを聴くことから、はじめよう

 

 

 

 

この凶器を使って、

 

一撃で相手を倒し

 

はじめから分かりきっていた勝利を見事収めた先に

 

 

 

相手を傷つけたことが

 

自分にそのまま返ってくる、

 

そんなことを知ったのです。

 

 (返ってくるも、また良し!なんだけど。)

 

 

 

だからまずは。

 

相手の気持ちを聴くことから、

 

はじめよう。

 

 

 

(特に、子どもに対して!要注意!)

 

がまんしないと、どうなるか。

がまんしないと

 

孤独や空虚を直視しなければならない状況に陥る

 

 

がまんしないと

 

どうしても失いたくないものを、失う

 

 

 

 

そして

 

がまんしないと

 

 

愛されていないと思っていた自分は

実は十分愛されているし、

愛したいのに愛せないと思っていた人のことを

 

実はとても愛していたことに 気づく

 

 

 

 

がまんとは、努力。

 

そして

 

クリシュナムルティ曰く

 

努力とはあるがままから気をそらすこと。

 

 

 

 

 

 

苦しくても悲しくても。

 

その気持ちを覆い隠すことは

 

そこから逃れるための努力は

 

しなくてもいいんだよ。

 

 

 

 

 

あるがままは、いつだって

 

美しく、

 

誰にとっても、最高に優しいのだから。