小さな勇気。
「いじめ」は何故、おこるのか。
いじめられたことは無いのに(単に気づかなかっただけかも知れませんが…)、ずっと、考えてきました。
小さな水槽に魚を沢山入れすぎると、一匹の魚を皆で攻撃し、その攻撃されている魚を水槽から出すと、別の魚が標的になり、集団攻撃は繰り返される
と、聞いたことが有ります。
動物の性?
でも、人間と動物がおんなじ、なんて変だよなあ…
そして、発見したのです。
(発見、と言っても、どこかで見聞きしたことが「腑に落ちた」だけかも知れませんが。自分としては、またまた世紀の大発見!)
いじめは
「自己中心的に生きてはいけない」という信念を、個人レベル・集団レベル(人類共通)で持っていること
によって、起こる。と。
どういう事かと言うと…。
まず、「自己中心的」生き方とは
自分自身の欲求に耳を傾け、欲求に従って生きること
です。
「自己中心的」
書いていても、抵抗が有ります。
「自分さえ良ければいい」という言葉は、物心ついてから最近まで、大嫌いでした。
何故大嫌いだったし今でも抵抗があるかというと、本当の自己中心的な生き方と他者中心的な生き方を混ぜこぜに考えていたのです。
今までの私の「自己中な人」のイメージは
・他人が自分の思い通りにならないと怒る
・自分が評価を得るため、得する為にずるいこともする
などなど。
ところがこれらは、他人の行動次第、他人からの評価次第、物理的なモノ次第(お金、家、その他何でも)であって、全然「自己中」でない!言ってみれば「他者中」だ!と、思ったのです。
ホンモノの「自己中」は自分自身の欲求に従うこと。
「他者中」だから、自分の声を聴くことを置いておいて(忘れて)、周りの環境次第で幸せを感じたり不幸になったりする。
いじめの話に戻ります。
いじめをするひとは、きっと、「自己中」な生き方はしていないと、思います。
いじめられるひとも、きっと、「自己中」な生き方はしていない。(「自己中」になった瞬間、その場には居られない、と思います。)
私たちは
「人に迷惑をかけてはいけない」
「欲求のままに不道徳なことはしてはいけない」
さらには
「自分の好きなことばかりしていたら嫌われるし、食べて(生きて)いけない」
と
あらゆる場面で、教えられてきました。
なぜ教えられたかと言うと
そんな風な信念を、教えた人が持っていたからです。
(それを教えてもらうことも自分で選んでいる、という側面もありますが、それは追々…)
何が正しいかが重要である「正しさ」の時代が終わり、何が楽しいかが重要な「楽しさ」の時代になったと言われていますが、私もそんな気がしています。
そして「いじめ」がそれを教えてくれるひとつの象徴ではないかなと思うのです。
勇気が出て、(少しずつ自己中心的になってきて、かな)ようやく気づけたのだと、思います。
私も持っている、「自己中心的に生きてはいけない」という信念がその現実を創っていた。
私自身が、いじめを創っていたことに。
私の中からこの信念が全て無くなることは、ないと思います。(だからいじめも全くのゼロになることはないかな。)
でも、人生ここからはホンモノの「自己中」にチャレンジして行きたい。とても怖いですが、やっていきたい。
そして民族・もっと広く人類で共有しているこの信念に、小さな小さな一石を投じられたら、とも思っています。
私ができることは、ほんの小さなこと。
でも、私が変われば、世界は変わる。
今朝方の、不思議な雲。
世界がふたつに割れちゃった
と、思った。
「自己中」と「他者中」について、今度もうちょっと書きたいなぁ、と思います。