正論おばけ。

正論は、凶器であるか。

 

否。

 

こんにちは、言論を直ぐに訂正する、私です。(笑)

 

 

 

正論とは、、、?

 

またまた考えてました。

 

そして、見つけました。

 

正論おばけを、あちこちに!

 

正論おばけとは、正論を言っているひとたち、です。

(えーと、正論を私に言ってくる「気がする」というだけ、ということも付け加えておきましょう)

 

では、なぜ「おばけ」みたいなのか??

 

正論とは大体、

 

常識(と言われているもの)であったり

こうでなくては

こうせねば

こうするべき

 

が元になってるので、

 

物凄く正しいようでいて、じつは、他の言論同様、ぼやんと不確かなものだからです。

 

 

 

で、正論おばけの正体とは。

 

そのひとに映し出された

 

 

自分

 

 

です。

 

 

や、そうではなく、

 

映し出された自分が、おばけのように空恐ろしいものにみえる

 

ということなのです、たぶん。

 

 

自分に、劣等感や罪悪感

つまり、自分自身が、

ベキネバで自分をジャッジしているとき

(たぶん、ほとんどの場合、無意識に。)

 

 

相手に映し出された自分が、おばけにみえるのです。

 

 

 

ま、相手に映し出された自分が、凶器のように空恐ろしいということもあるわけで。凶器でも、結局は良いの(笑)

 

 

 

 

そしてたまには

 

正論をどーーーして言いたくなってしまうこともあるでしょう。

 

お互いさまで、

(正論で相手を傷つけると、結局自分に返ってくるからね)

そのおばけ役をたまには引き受けなくてはならないこともある。かも。

 

でも、引き受けなくても、よい。(笑)

 

 

 

 

なんだか、こんがらがっちゃった。

 

 

でもつまり、

 

しあわせいっぱい〜♡

 

ならば

 

おばけも、凶器も

見ることはないし

グサリとやられることはないのですね。

 

で、自分も、おばけちゃんになることもない。

 

そんなことを思った、昨日今日、でした。

 

 

忍耐って

がまんすること

(結果をコントロールするために努力すること)

 

は 忍耐ではない。らしい。

 

 

 

忍耐とは

 

自分が正しいとおもうことを

 

誰に反対されても

 

誰に馬鹿にされても

 

誰に批判されても

 

し続けること、かなあと、おもう。

 

 

 

戦時中とかなら考えを表に出しただけで殺されちゃったりするから、大事にあたためておくのも、行動のひとつだね

 

 

 

忍耐、はじめました

正論という凶器。

 

正しさは時として

 

凶器になる。

 

私は、そう思っている。

 

 

 

 

そして正論の中の正論、

 

ものすごい凶器が、あるのです。

 

 

それは

 

 

「自分で決めたことでしょ」

 

 

これはもう、ザックリ、一撃で、相手を倒せる。

 

 

だから、この凶器は、あえて使わず

 

まずは相手の気持ちを聴くことから、はじめよう

 

 

 

 

この凶器を使って、

 

一撃で相手を倒し

 

はじめから分かりきっていた勝利を見事収めた先に

 

 

 

相手を傷つけたことが

 

自分にそのまま返ってくる、

 

そんなことを知ったのです。

 

 (返ってくるも、また良し!なんだけど。)

 

 

 

だからまずは。

 

相手の気持ちを聴くことから、

 

はじめよう。

 

 

 

(特に、子どもに対して!要注意!)

 

がまんしないと、どうなるか。

がまんしないと

 

孤独や空虚を直視しなければならない状況に陥る

 

 

がまんしないと

 

どうしても失いたくないものを、失う

 

 

 

 

そして

 

がまんしないと

 

 

愛されていないと思っていた自分は

実は十分愛されているし、

愛したいのに愛せないと思っていた人のことを

 

実はとても愛していたことに 気づく

 

 

 

 

がまんとは、努力。

 

そして

 

クリシュナムルティ曰く

 

努力とはあるがままから気をそらすこと。

 

 

 

 

 

 

苦しくても悲しくても。

 

その気持ちを覆い隠すことは

 

そこから逃れるための努力は

 

しなくてもいいんだよ。

 

 

 

 

 

あるがままは、いつだって

 

美しく、

 

誰にとっても、最高に優しいのだから。

悪い人なんていない。

子どものころから、

 

悪いひとなんて いない

 

と、思っていました。

 

 

 

意地悪するひと

 

騙すひと

 

戦争するひと

 

人を殺すひと

 

 

 

 

みんな、

 

困っているひと。

 

困っているなら何をしても良い

 

ということではないけれど

 

もともと悪い、というひとは いない

 

 

 

 

、、、という、つぶやきでした。

感情は、じぶんではない、ということ。

お久しぶりすぎて

 

状況が変わりすぎて

 

何から書いていいのやら

もはや、わからないので。笑

 

 

 

最近、思っていることを。

 

 

 

 

「感情は自分ではない」

 

 

ということ。

 

 

 

感情は、単なるナビゲーションシステム、とおもってます

(この言葉自体はよく言われていること。ま、結局、受け売りです。悪しからず。笑)

 

 

つまりは、

 

 

今ここですよー

 

ちょっと道外れました

 

あってます、そのままです

 

 

という、お知らせ。

 

 

えーつまり、大きな意味では自分なんだけど、笑

 

でも、ナビこそが自分だ、とおもうと、つらい。

 

「こころの問題」

 

って、ナビをそんなにフォーカスして、詮索しなくてよいと、私は、おもう

 

 

 

嫌なきもち

苦しいきもち

人を嫌うこと

憎しみ

 

 

出てきて、当たり前。

ナビ、良くはたらいてます。

 

もちろん、道を進むと(物事が進むと)

ナビのお知らせは、すぐ変化します。

 

 

 

そう、ナビが色々言ったからって、

 

それはホントの「自分」じゃないよね、

 

 

 

と、いいつつ、

 

感情はパワフルで

 

罪悪感やら劣等感やら

 

ナビにぐるぐる惑わされるのも、私の日常。笑

 

 

 

 

じゃ、目的地は、どこ?

 

そもそも、そのナビ使ってるのは??誰?

 

 

 

 

そう、ナビを使っているひと

 

それが、きっと

 

「自分」

 

なんだよね。

 

 

 

 

そのことを、想い出す時間

 

そして、想い出す、きっかけ

 

それが私にとって、とてもとても

 

大切な、ことなのです。

 

 

 

欲張りいうと

 

このblogで

 

そんな時間ときっかけをプレゼントできたらなあ、

 

なんて、おもってます

 

 

 

今日も、泳ぐぞ〜

 

 

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レトロすぎて

大好きすぎるプールにて