「やってあげる」は奴隷宣言。

 

 

吹雪の中、弾ける笑顔で登校する高校生カップルをみて、キュンとした今朝ですが

 

昨晩は久々に夫とひとモメありました。

 

仕事が詰まっている私のところに、子どもを見てくれていた夫が、子どもが泣き止まないからと連れてきたのです。

 

で。

 

おい〜

子どもみるなら、責任持ってみてよ〜

ダメになったら私にホイ、とかやるから、

最終的にはお父さんじゃなくて私が良いーってなるんだよー

 

てな不毛なことを言ったならば。笑

 

赤ちゃんとか子どもをみるって、自分の思い通りにいかなくて奴隷になるようなものでしょ。疲れる時もあるよ〜

と、夫。

 

!!!

 

えっ、子どもといること、そんな風に思ってたの…!

んじゃ、子どもみなくていいよ…誰か別な人に頼む…

 

 

 

 

奴隷…

という言葉が、妙にに引っかかりました。

 

奴隷って、支配されていて、自分には自由がないってことじゃんか…

 

 

夫いわく、

子どもを見るのは楽しいし、ずっと一緒にいるとたまにイライラしちゃうということで、奴隷という言葉に深い意味は無い

 

そうなのですが、

 

 

とにもかくにも

私がめちゃくちゃその言葉に反応した

(私がそのような行動を夫にさせた)という現象、

これは何かがある…!

 

 

 

 

で、一旦忘れてたら、ある時

 

ふっと、浮かんだのです。

 

「誰かのためにやってあげる、は奴隷になることだ…」

 

なんだこれ??

と思いつつ、探していたものはこれだなと確信めいたものが有りました。

 

で、早速考えてゆくと…

 

 

そうかあ…

 

 

 

誰かからの感謝、承認を得るため

どこかでの所属を得るため

それから、罪悪感を解消するため

 

自分の純粋な欲求からではなく、 それらの目的のために行動する全てのことは

 

目に見えない(あるいは、見える)何か(あるいは、誰か)の、奴隷になることなのだ

 

 

 

お金のため

嫌われないため

許してもらうため

 

社会のために

子どものために

親のために

誰かのために

 

心からやりたい訳ではないのに

 

 

やってあげる

 

は、

 奴隷になる宣言であり

 

そして

 

自分に対しても、全てに対しても

 

なんたるおこがましい行動なのだろう…

 

 

 

たとえね、嫌なことだって、

自分が本当にやりたいことだったら、やろうよ

(このニュアンス伝わるかしら?)

 

逆にね、嫌じゃないけど(得意なことだったりしてね)、やりたくないことをやるって、なしだよ

 

 

という…

 

 

結局のところ、いつもの話なのでした。

 

 

ま、そもそも。

純粋な欲求なのかそうではないのかを見極めるのは、今の私の目下の練習課題なのですが。

 

お久しぶりのイライラは、自分の純粋欲求探知機の精度上げてね、という、お知らせかも知れない。

 

 

 

 

自由はタイヘン

 

自由は楽しい

 

 

自分のカヌーで自前のオールで。漕ぐも手を止め流されるも、思いのまま

 

それが自由ってことなのだろうなあ

 

 

 

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イッポンでも ニンジン。

 

長女が授業「暮らしの仕事」で収穫した人参

なんだって。貴重!

どうやってたべようかなー