新たな、楽しみ。
夫に
「みあちゃん(ワタシ)のブログ読んでると自意識がよく分かって読んでて嫌な感じがする」
と、言われてしまい
「そんならもう、私そのまんま出しちゃおうかな」
と思いつつも
「いやいや、自意識過剰な私も可愛いではないか」
とも思ってしまう、近頃めっぽう自分に優しい、私です。笑
で、本題。
お昼寝を、これでもか!というくらいにしてしまったので
(結果、長女のお迎え間に合わず)
そして現在、お決まりのように、眠くならず…
おかげでコソコソと本が読めてしまいました。
ラッキー!
友人から、「この夏一番のオススメ!」と押し付け…いや、貸していただいた本。
『読むだけで見えない世界とつながる本』
これが、面白いのなんのって。
思い返せば、中学生くらいの頃から、私のまわりには霊感がとても強かったり、いわゆるスピリチュアルなことが好きな人も多かったのです。
神奈川県藤野に越した時には一気に私の周り世界のスピ人口が増え
気がついた時には、自分もスピ世界の住人に。(笑)
だって、面白いんだもん。
だって、ホントのことなんだもん。
仕方ない!(☜何故かまだ、若干の抵抗が見られる)
今は子どもたちがシュタイナー学校と幼稚園に通っているので、本当に楽しいです。
話は戻って友人から借りた本の内容なのですが、
要するに、守護霊さんや天使さん、異星人や女神さんたちとコンタクト取ってみましょうというところから始まるのです。
始めの部分だけ読んでしばらく放置していたのですが、今日運転中ふと
「私も守護霊さんたちのメッセージ、受け取れるかな」
と、頭に浮かびました。
その時、対向車が来たので(☜滅多に対向車が来ない道)
「おっ、何か早速メッセージあるかな」とナンバープレートを見たら、
「1717」
でした。
「イーナイーナ!(☜語呂合わせ好き)、って、何が?笑」
と、ひとり心の中で突っ込んだくらいで、その時は過ぎました。
そして、さっき。
借りた本(見えない世界とつながる本)を読み終えて、著者のblogを何となく見てみると…最新の記事が
http://kanazawax.exblog.jp/26199988/
著者の『最近の驚愕のシンクロ「1717」について』でした…笑
つまり私の受け取ったメッセージは…
「はい、確かにいますよ〜」by守護霊
なのでした。笑
こういう出来事が有ると、
大人になるって、面白いなぁと思います。
世界の遊び方について
色々なことがわかりはじめる。
いえいえ、「思い出しはじめる」。
それは謎解きゲームのようであり
現代を生きる喜びそのものでもあると思います。
…
☝︎また自意識過剰って言われちゃうかしら。
でも、自意識過剰ゲームも良いよね!
世界の遊び方に、「良い」も「悪い」もないのです。
あべこべ、だったりして。
最近、ふと、考えることが有ります。
天使と悪魔、
良いことと悪いこと
(そう思っていること)
全部、あべこべだったりして、って。
ある時、自分の中の天使の声が囁く
「これやらないと、あの人が困るよ。人に迷惑ばかりかけ続けてたら、嫌われて、独りになっちゃうよ。独りにならないために、今これやっておこうよ」
同時に、自分の中の悪魔が囁く
「人が困ったっていいじゃん、やりたくないんだから、やらなきゃいいよ。」
今までは議論の余地なく、天使の声を採用して、行動していました。
(と、おもうけど…アンタに限ってそんなことあるかーーー!って反論いただきそう。まぁまぁ、聞いて♡笑)
だけど、本当はどうなんだろう。
私がやりたくないことやって、喜ぶ人がいるのだろうか。
そもそも、本当にその人は私がやらなかったことで、困ったりするのだろうか。
「そんなこと言ったら傷つけるよ。」
「そんなことしたら嫌われるよ。」
「そんなこと言ったら、呆れられるよ。」
「だから、ね?やめようよ。(もしくは、こっちをやろうよ。)」
…ホントかなぁ〜???
天使の声と思っていた声が
実は悪魔の声だったりして。
(ゴメンナサイ、「天使」と「悪魔」って、勝手にテキトーに使ってます、厳密なことではなく、イメージです○)
冷静に考えてみるればみるほど、あべこべな気がするんです。天使の囁きのような、親切に、私を思っているかに聞こえる言葉こそが、何を隠そう、私を追い詰めているのでは。
それにね、第一、人を傷つけることなんて出来ない、人を困らせることなんて、私には出来ない(誰にも出来ない)のだから。
で、多分なのですが、この心の中のことはまさに自分の周りに鏡のように映し出されているのだろうと思います。
親切な、助言をしてくださる方。
それ、ホントかなぁ〜?
(あれ、でも、最近全然いないや、そんな人。笑)
話は少し変わって。
夫と話していると、イライラします。
嫌な気分になります。
と、前にも書きました。
私のもともと持っているイライラを出させてくれて、「今してること、何か違うぞ」に気づかせてくれる、夫こそが天使なのかなと、思います。
(だからって、無理に仲良くしないけどね!へへん!)
嫌な思いさせてくれる人は、有難いなぁと、思います。
自分のこと、気づかせてくれる。
幸せへの道しるべとなってくれる。
そう考えると、親切な助言で追い詰めてくれる人もまた、有難い存在。
追い詰められたら、そこでも気づけるから。
全ては、私が気づけるようにとの計らい。かぁ
と言うわけで。
天使も悪魔も。
世界はやはり、信頼に値するのです。
十五夜の御月様。
綺麗でした。
色々満ちました。
諦めない。
突然ですが、作家さんのモノづくりが好きです。
作らなければ、そのひとは生きていられないような…
神様のお仕事のような、モノづくり。
だけど、普通のひとが普通につくったものも、とてもグッとくることが多々あります。
それはどんなものかというと
私は今まではそれを「愛情を感じるもの」と表現していたけれど、きっとこっちの方が、ぴったりという言葉を見つけました。
「幸せを諦めなかった跡が残るもの」
どんな状況にいても出来ることが、ある。
そんな風に、おもいます。
物質的に恵まれていても、いなくても
状況や環境に恵まれていても、いなくても
私たちは、幸せでいることを選択することが、出来る。
話は大幅にかわりますが、どんな状況にいても、と書いて強制収容所を思い浮かべました。
悲惨なことです。
(そんなことが、どうしておこるのかな。
私はきっと前に書いた「いじめの原因」と同じなんじゃないかなと、思います。)
でもきっと、きっとね。
そんな状況でも幸せを選択することは、出来るのですよね。
如何なる人も、他人の身体を傷つけることはできても、心は傷つけられません。
自分の心を傷つけることが出来るのは、自分だけ、なのです。
心は、いつだって自由だから。
自分が自分の心に、自由になることを許しさえすれば。
こんなことを書くのは、ちょっぴり心が不自由な気持ちがしているのかも知れません、今、私自身が。
人のせい、は、ない。
心は全て、自分の責任であり、
だからこそ、面白いのだと思います。
「責任」というと何だか重たいけど。
そして「人のせい」、は、決して「悪」なわけでもないけれど。
人間の可能性を信じたい。
自分の可能性を信じたい。
人も自分も、本当は、もっともっと、限りなく優しい存在なのだと
だからみーんな幸せになって良いのだと
何故か幼い頃からずうっと、そんな信念だけは、有るのです。
不思議。
今日はまとまりないなぁ…
でも書きたいことが書けて(ホンネに届いて)満足。
ホッと、ひといき。
保育園のお迎えに向かう車を運転しながら、ふと思う。
幸せって、つくづく、環境や物理的な条件じゃないよなぁ、と。
「私が考える幸せの条件」なるものを手書きのお店の通信に書いたことがあります。
その1
「今」が楽しいこと
その2
未来に希望が持てること
今が楽しいは良いとして(これも意外と難しいのだけれど)
未来に希望が持てるのって、どんなときだろう
私の場合は、自分自身と繋がっている感覚がある時、未来に絶対の希望を見出せる、ような気がします。
それは、
うん、これでいいんだ、
という感覚。
で、それは必ずしも、状況が良いからそういう感覚になれるというものでもなく。(多分)たとえ人から嫌われていようと、本当に自分で自分の味方でいられたら、これでいいんだと思えるはず。
「本来の自分を生きている」感覚は、未来への希望そのもの、なのだと思います。
そして勿論
心からホッとしている時はほとんど、自分と繋がっていて、未来に希望を持てている感じがします。
という訳で。
やはり、心からホッとすること、
まずはそれが一番大切なのですね。
自分だけの、安らぐこと、楽しいこと、気持ちのよいこと、たくさん見つけよう。
ひとりひとりが、毎日、心からホッとする時間を持つことができたなら
大袈裟じゃなく、世界は今より平和になると、私は思います。
ここで、いつものセリフ。
よし。まずは、自分から。
ホッとしよう。
小さな勇気。
「いじめ」は何故、おこるのか。
いじめられたことは無いのに(単に気づかなかっただけかも知れませんが…)、ずっと、考えてきました。
小さな水槽に魚を沢山入れすぎると、一匹の魚を皆で攻撃し、その攻撃されている魚を水槽から出すと、別の魚が標的になり、集団攻撃は繰り返される
と、聞いたことが有ります。
動物の性?
でも、人間と動物がおんなじ、なんて変だよなあ…
そして、発見したのです。
(発見、と言っても、どこかで見聞きしたことが「腑に落ちた」だけかも知れませんが。自分としては、またまた世紀の大発見!)
いじめは
「自己中心的に生きてはいけない」という信念を、個人レベル・集団レベル(人類共通)で持っていること
によって、起こる。と。
どういう事かと言うと…。
まず、「自己中心的」生き方とは
自分自身の欲求に耳を傾け、欲求に従って生きること
です。
「自己中心的」
書いていても、抵抗が有ります。
「自分さえ良ければいい」という言葉は、物心ついてから最近まで、大嫌いでした。
何故大嫌いだったし今でも抵抗があるかというと、本当の自己中心的な生き方と他者中心的な生き方を混ぜこぜに考えていたのです。
今までの私の「自己中な人」のイメージは
・他人が自分の思い通りにならないと怒る
・自分が評価を得るため、得する為にずるいこともする
などなど。
ところがこれらは、他人の行動次第、他人からの評価次第、物理的なモノ次第(お金、家、その他何でも)であって、全然「自己中」でない!言ってみれば「他者中」だ!と、思ったのです。
ホンモノの「自己中」は自分自身の欲求に従うこと。
「他者中」だから、自分の声を聴くことを置いておいて(忘れて)、周りの環境次第で幸せを感じたり不幸になったりする。
いじめの話に戻ります。
いじめをするひとは、きっと、「自己中」な生き方はしていないと、思います。
いじめられるひとも、きっと、「自己中」な生き方はしていない。(「自己中」になった瞬間、その場には居られない、と思います。)
私たちは
「人に迷惑をかけてはいけない」
「欲求のままに不道徳なことはしてはいけない」
さらには
「自分の好きなことばかりしていたら嫌われるし、食べて(生きて)いけない」
と
あらゆる場面で、教えられてきました。
なぜ教えられたかと言うと
そんな風な信念を、教えた人が持っていたからです。
(それを教えてもらうことも自分で選んでいる、という側面もありますが、それは追々…)
何が正しいかが重要である「正しさ」の時代が終わり、何が楽しいかが重要な「楽しさ」の時代になったと言われていますが、私もそんな気がしています。
そして「いじめ」がそれを教えてくれるひとつの象徴ではないかなと思うのです。
勇気が出て、(少しずつ自己中心的になってきて、かな)ようやく気づけたのだと、思います。
私も持っている、「自己中心的に生きてはいけない」という信念がその現実を創っていた。
私自身が、いじめを創っていたことに。
私の中からこの信念が全て無くなることは、ないと思います。(だからいじめも全くのゼロになることはないかな。)
でも、人生ここからはホンモノの「自己中」にチャレンジして行きたい。とても怖いですが、やっていきたい。
そして民族・もっと広く人類で共有しているこの信念に、小さな小さな一石を投じられたら、とも思っています。
私ができることは、ほんの小さなこと。
でも、私が変われば、世界は変わる。
今朝方の、不思議な雲。
世界がふたつに割れちゃった
と、思った。
「自己中」と「他者中」について、今度もうちょっと書きたいなぁ、と思います。
まだ寝てる。
しめしめ、乳幼児が寝ているうちに…
先日のフウフカイギ(つまりは、単なる雑談。)が面白かったので、メモ。
私「カツヒロくん(夫)と話してるとつまらないんだよね。価値観共有できてる気がしないし、楽しくない」
夫「じゃ、どんなとき楽しいの?誰と話してるとき?」
私「んー○○さんとか、△△ちゃんとかかな。自分の好きなことに夢中で取り組んでいる人と話してると、楽しい!」
「なんか、カツヒロくんと話してると、嫌な気持ちになってきてイヤ…」
私「…」
私「!!!」
私「うけるー!私、感情をそのまま味わうことをしたいって言いながら(過去記事参照)、嫌な気持ちになるのがイヤって言ってる!」
夫「これからどうしたいの?」
私「もっと嫌な気持ちになりたい〜(笑)」
「これからどうしたい?」「本当はどうしたい?」は、ナイスパスですね、素晴らしい。
ありがとう、夫さま。
夕日が好き。
何故か無条件に感謝の気持ちが湧いてくる。