「なんか腹立つ」について話しあう。
フウフカイギ議事録
です。
噂によると夫もフウフカイギと題してblog記事書いているそうで(←読んだことない)
もしかしたら双方から読んでいただくと面白いのかも、と思ってみたり。
(そう、「議事録」といっても、全く客観的視点から書いたものではないですので、悪しからず!)
えーー、では、始まります。
子どもたちが寝静まった後に
なんとなく、最近の小モメについての話から
夫の「なんか腹立つ」
に、興味深々の私。
というのも、今まであまりなかった
「なんか腹立つ」が最近夫から出始めていて、イイぞイイぞと思って見てたのですが、(だって、ようやく感情出てきたってことは素晴らしいじゃん!と思うのです)
どうやら、イイぞ〜と、思われること自体に腹が立つらしく。笑
そのあたりを、聞いてみました。
私「腹が立つ時って、どんな時?」
夫「んーー、例えば、保坂なおき(←漢字分からず)がテレビで言ってた「妻が怒りたそうだったら、喧嘩をふっかけて怒らせてあげる」って発言とか…」
私「えー!なんで!怒らせてくれるなんて、親切じゃん。」
夫「なんていうか、みあちゃん(私)の時もそうなんだけど、上からものを言ってるっていうか…手の上で転がす発言ていうか」
なるほど。
「上からものを言ってる」
「手玉に取ってる」
こう感じて、それに腹が立つらしいのです。
私「うーーん、そもそも怒らせてくれるのって、ありがたいことで、子どもが怒らせてくれる(※注)のと、旦那や上司が怒らせてくれるの、何か違うの?上とか下とか、無くない?それに、実際には全く手玉に取られてないんだから、イイんじゃない?…まだ続く」
(※注)
子どもという存在は親にとってギフトであり、それは怒らせてくれるという側面もまた然り。
子どもたちは親の抑圧した感情を引き出してくれて、本来の自分を生きることの手助けをしてくれる存在と、私は思っています。
だから、欲求を抑圧し続けて、いいお母さんでいようとすると、どこまでも怒らせたり悲しませるようなことをしてくれる…と思っています。
↑体験者は語る…
その後も夫の言葉1に私が10返すという状況で
このカイギは夫が醸し出す「なんだかあまり腑に落ちないんですけど」という雰囲気で終わりましたが、私は勝手に大満足でした。
というのも、こんなことを確認できたからです。
誰も、私を怒らせることはできません。
怒るのは、私自身です。
ということと、
あの人の言動で怒らせてもらえてありがたいなぁ。
という、一見矛盾するふたつは、
誤解を恐れず言ってしまうと
全て、私が世界を創っている
というとんでもない信念により、私の中でぴったりと統合したのだということ。
怒りを手放す
なんてこと、しなくて良かったんだ
そもそも、そんなこと無理だった
怒るもよし
怒らないもよし
全て、自由で、
そのどれもが、自分を知ってゆくこと。
なんと気持ちの良いことだろう
ごく幼い頃の、自分の怒りに振り回されて苦しくて悲しかった私に、
見てごらんー!
と、言いたいです。
少しだけ、自由に、なれたよ。
…30年くらい経って…笑
長くなりました。
今日は、ここまで。
もしもここまで読んで下さった方がいらしたら、本当にお礼を言いたいです。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございます。
あなたと私の明日が、今日より少しだけ自由でありますように。
おやすみなさい。
また、デートしに行こうっと。
自分と。(つまり、独りで。笑)
夏休み。
子どもたちの夏休みが始まって
午前中は子どもたちと、家の近くの自然農園さんで田んぼの草取り
(乳飲み子は保育所の一時保育へ投入)
午後は友だちのお誕生日プレゼント作ったり、頼まれた縫い仕事。
ブレイクは、友人が焙煎したバイオダイナミック栽培コーヒーと、旦那の出張お土産のひよこ(ベタ!)にしよう〜
気がつけば、理想的な、1日。
人混み嫌い、家の窓から緑が見えて欲しい
夕食作って食べてゆっくりして、10時には寝たい
子どもは自然の中で遊ばせたい
家に居るとき車の音聞こえないで欲しい
オーガニックで、新鮮な野菜をモリモリ食べていたい
都会でひとり暮らしの時には、ないものねだりと言われ
自分でも、ワガママすぎるのかなと思ってみたりもしたけれど
実現すると、これが、リアル。
至って、普通、のことなんだ。
風が爽やかで気持ちよい〜
楽しいことばかりじゃないけど、
好きなことなら、がんばれる。
というのは、かっこつけすぎかな…がんばれない時も、多々有ります…笑
Yes.
オノ ヨーコ が大好きです。
彼女の言葉(どこで触れたか忘れてしまったけれど)
「私は弱い人間だから、人の真似はできないの」
彼女の弱さは、強さなのかも知れません。
自分を生きる、強さ。
私はヨーコ(愛を込めてこう呼ばせていただきます)よりも、少しだけ強かったし、器用だったのかも知れません、
愛されるようにと
「普通」(冷静に考えると「普通」ってなんだって感じですが)に憧れ、「普通」であることを自分に強要したり
愛されている(と私には見える)人の行動や、考え方を真似しようとしたり。
それも全て自分を思っての行動だったのですが、自分に「Yes」を出せていないのはとても辛かった。
長いことやっているうちに
つらくてつらくて、追い込まれました。
追い込まれて追い込まれて
ドン底に落ち、
やっと、「子どもを産みたい!」という湧き上がる本来の欲求を満たすことができて救われ
(産みたいから結婚しろ!と言う(毎日怒鳴りながら(笑)今思えば別の伝え方あったな〜)私の欲求を半年くらい受け入れず、さりとて別れもしなかった現・夫に感謝←皮肉っぽい)
さらに数年後「プライベート出産したい!」という欲求を満たしたら、本当に自分に「Yes」が言えた満足感に満たされました。
そういう訳で、子どもたちには本気で感謝しています。まさに、「生まれてきてくれただけで、一生分の親孝行しきったね」です。「あとは自由に、好きに生きてね」。これは、楽です。(小1でさっさと不登校するやら、ホントに自由に生きてる〜涙)
話が、少し、ズレました。
大きな欲求を満たし、自分に「Yes」を言うこと。
それを、はじめにしてしまった感じです。(私らしい…)
後は、日常の、小さなことでコツコツと「Yes」を言ってあげることを、していこうと思います。
人間は弱い。
だから、人真似せずに自分に、Yes
まずは、自分から。
また、書きます。
つい、さっきの空。
天女の羽衣のような、雲…!
優しさの出し惜しみ。
大好きな人たちのことを、考えると
優しくて 優しくて、
優しいなあ、と、思います。
自分のことを、考えると
やっぱり、優しいなあ、と思いますが
でも当たり前だけど、優しくなれない時もあって
それは私の感覚でいくと
優しさの出し惜しみをしてるなぁ、という感じ。
そして何故出し惜しむのかというと、
嫉妬や 恨みつらみがある、
よーするに、自分に自信がない
⇨自分自身に優しくできていない
そういうことなんだと思います。
でも自信が無いときは優しくなくていいのだとも、思います。
誰かに優しくして、自分のこと認めてもらって好きになってもらおうとするくらいなら
暴言吐いて、「ああ、今こんなに私自信ないのね…もっと自分のこと大切にしてあげよう」って思えばいい、と。(自己嫌悪と罪悪感に逃げ込んでそこに落ち着かずに、ね)
優しさのカタチは色々だけど、
ホントはみんな
優しいんだ、と、思います。
そして優しさもエネルギーもお金も、出し惜しみせず、みんなで持ち寄れたら、どんなに楽しいだろう…
と、思ったけど、すでに持ち寄れている時がある!という事実。
だから大好きな人たちのこと、大好きなんだものね。
不安も安らぎも、愉しんでよし。
さよなら、今日という日。
ありがとう。
本音にリーチ。
本音を伝える自主練をしています。
いや、正しくは、本音を探すところからの練習。
前回までの記事にも (たしか)チラホラ・グダグダ書いてしまったけれど、自分の感情や本音なのに、直ぐには分からないことも多いのです。
つまり自分で自分をジャッジしたり(中でもよくあるのが「私は悪い子ストーリー」と呼んでいるもの)、感情を感じる前に傷つかないような理由をつけちゃったりする、ということ多々…トホホ
そんな私の体験から
とあるエピソードを。
ある日、次女を車で幼稚園に送り届ける途中
私「あれ?帽子、被ってきた?」
次女「…」
私「え?忘れたの??」
ここで私のイライラ…が、発動。
私「なんで〜!こんなお天気いい日に、帽子ないと外遊びの時、頭痛くなるよ!怒」
(あれ?なんか本音と違う…そんなこと別に言いたいわけじゃない…)
次女「いいの!痛くならない!怒」
私「お母さんさ〜子ども3人もいて、みんなの持ち物なんて全部みてられないんだからちゃんと自分でやってよ〜!怒」
(これも、違う!これじゃない、本音は…)
次女「自分でなんて用意できない!それに帽子なんていらないって言ってるじゃん!怒」
私「あんたが帽子被ってないと、お母さん、子どものことちゃんとやってないお母さんってみんなに思われちゃうから嫌だ!怒」
(…あ、これだ…私の本音…)
次女「だれもそんなこと、思わないよ。それにお母さん全部ちゃんとやってくれてるっていおの(次女の名前)は知ってるよ」
って、優しく言ってくれたのですよ…
イライラは、即座に収束。
優しい気持ちでいっぱいに、なりました。
どんなことであっても、本音は、優しい。
そう、自分にも、人にも。
それが身に沁みて分かった一件でした。
雑草と植えたお花たちが同居の花壇。
うん、これで、良し。
No, thanks !
大好きな、Happyちゃんのblogを読んで、激しく同意した、今日の未明。
自分にYes
世界にNo, thank you
なんてシンプルで、私にとっては取り組み甲斐があることだろうか
自分の時間が大量に必要なのも
沢山の人数の場で居た堪れなくなるのも
きっと 自分自身の声を聴いて
さらにYesを出すなんてこと
してこなかったからだ、きっと。
そして、私にとっては
ただのNoじゃなくて
Thank youをつけること
それが大きな発見でした。
Noを言えなかったのは
私はそう、思わない
私は、それ、好きじゃない
と共に
ありがとう、あなたの気持ちが本当に嬉しいです、
が無かったからでした。
そして、それが無かったのは
自分にYes.を出しきれてなかったからなのでした。
なんだか、ややこしいな。
うん、でも、出来る気がしています。
世界平和は、まず、ここから。
自分と仲良くなったら、きっと目に見えて世界も違うものになってゆくという、実験。
乞うご期待!
いいこ、いいこ。
ぼやーっと、死を、考える。
今は、多くの人がマイルドに絶望している時代
なんだそうです。
成る程。
きっとその原因には、
簡単に死ねない
ってことがひとつ、有るのかもと思います。
死を遠ざける
は、そもそも西洋から導入された考え方なのかなぁ、と思いつつ。
どうも、私にはフィットしない。
死を遠ざける
死を悪として、なるべく見ないように、近づかないように、回避するように、生きる
だけど私は、
いつも死を見ていないと、
本当に生きてる感じ、しないよなぁ
と、思うのです。
だから、出産も、
ある意味死と隣り合わせの自宅でプライベート出産を選びました。
…これに関しては、「ひとりでこっそり産んでみたい」というワクワクが一番の動機なのですが…
生きていることは、全然当たり前のことではなくて
それはそれは素晴らしいことで
だけども死も、魂のお家に帰る幸せなことで
だとしたら、安心して、やりたいことやれば良いよね、って思えるのです。
折角、地球に遊びに来たのだから
真剣に、
もっともっと死ぬ気で遊びたいなー、と思います。
何処までも続く、畑と、霧。
やがて霧は晴れて、晴れの日が続き、沢山の作物が育ちます。